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  管理人・歩く猫 これっぱかしの宝物について。真田丸とネット小説など。ご感想・メッセージなどは拍手のメッセージ欄でも各記事コメントでもお気軽にどうぞ
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思うぞんぶんネタバレ・引用しています。感想はあくまで私の主観的なものであり、ふだん本を読むときと同じ、一回さあっと読んだ読者としての印象です。

「自分ならどう作るか」ということを考えたくなってしつこく書かせていただいている箇所もあります。長いときはえろう長いのですが、私の誤読であれば書き手さんが「それは違うぞ」と思えるよう具体的に書いてみたつもりです。

拍手[0回]


C-01 毒
やー面白かった。徹頭徹尾やられた、という感じ。映画のような鋭いカットバックに、頭の中でビラや追っ手の影や、戸口の警官の足元のクローズアップがひらめく。着実に緊迫の度を増してくシーン展開に夢中にさせられ、「>つまみ食い」のことなんか完全に意識から抜け落ちているところを、「>腿肉」が襲う。お客の手に握らせたものを消したり別の物体に変えたりしちゃうテーブルマジックみたいな「やられた」感。いつあれを言ってやろうかと虎視眈々としている書き手のスタンスを受け取るわけです。よーしどんと来いと心にハチマキをしめてみるものの、読み始めればまたあっさり心を奪われる。写真の顔が調理場の扉に無言のクレームをつけてるように見えるユーモラスな一瞬、私もその場にいた。空になった皿に「>縞模様」を描くという表現に、腰がとろける。空白の祭壇と空っぽの皿に何を注ぐか、という対比もうっとり。
「>じいさまの仇」に凝り固まっていたヒオドの苦悩を、チタが動機と行動に解きほぐしてやる。「>皆が無関心なのに、俺たちだけ這い回って血を流している。俺はただ、じいさまの仇が取りたかっただけなのに」が、チタと話すことで「>あなたが殺されたことと同じくらい、皆がそれに無関心な振りをするのが嫌だった」になる。悲しみのカードを切り直すような手際で同じ言葉の配置だけが変えられて、クラッとするような安堵感があった。たどりつきたかった場所へ連れてきてもらえたなーという読み手冥利か。悲しみに名前をつけて呼んでやれることが、小説の輝ける機能なんだと思う。
とはいえ出来事とは状況や見方次第でどのようにでも名づけられるもの。ヒオドの歯噛みもチタの暮らし優先も真実正しい。今日食べるものが人を作り、ものを食べた人が明日を生きる、という同じ出発点から、人は別々の結論を出せるんだということをはっきりさせて、前段は終わる。世界が変わる望みはないという外堀をここまで固めてしまうのかとハラハラしている読み手の首根っこを、ぐっと押さえつけながら。
そして再会のシーン。これ以上ない大成功を手にした「>精悍な」ヒオドが登場して読み手を歓喜させたところへ、忘れていたタイトル「毒」が投げられる。心のハチマキ、油断。そうかまだ何かで小突きまわされるのかと、身構えるハチマキ戦士。そしたらあんなミラクル回収だものー、信じてた、いや信じてたよと、ずれたハチマキで目頭を押さえながら、読み手はようやく息をつくことを許されるのでありました。

兄を殺した陣営のリーダーだ、あんたは敵だ仇だとチタは言わない。でも三年前に「>自分だけが善く生きられるはずがないんだ!」と気持ちをぶちまけたヒオドのように何かを言葉にしたかったはずで、だから「毒」という強い言葉が出たのかな。過去にナチ党員だったことがある人も旧ユーゴで当局側の官庁に勤めていたことがある人も、個人個人はチタの兄のような普通の市民であるわけで、前政権の悪行を並べ立てるのが新政府の最初の仕事とばかり、ヒオドが物事すべてをじいさまの仇討ちとして見ていたら、チタも兄の遺影を隠しておかなきゃならないとこだったろう。復讐の連鎖を断ち切ることに成功したような日々がしばらくは続く。しかし政権をとった途端にそれまでの謹厳居士っぷりを捨て去る輩に成り下がれば、ヒオドがまとう英雄物語、掲げた理想はそのときこそ「毒」になって新政権の足をすくいにかかる。
今日食べたものをただ明日につなげようというひたむきな願いであり、過去いかに食べ生きたかは必ず未来に関わってくるという警句であり、食という一事が、あらゆる姿・形を取ってすみずみに出現し、作用している。とてつもなくバランスの取れたカバー力を感じる。「ある環境に置かれた場合、人はどう反応するか」がよく掘り下げられているとき、同時に「そういう反応をする人が集まってできるのは、どんな環境か」という命題も深まっているのだと思う。環境と人が手をつなぎ、ひとつの世界が回り始める。読後の余韻が長く続くのはそういうことだ。一度円環が閉じればそれは車輪で、読み手はそれに乗ってどこまでも行けるのだ。陶酔の段ご免じくださりますよう。

蛇足。シンプルタイトル「毒」のシンプルサウンドには、某熱血演劇漫画で主人公が審査員をうならせた即興芝居の一本が遠く共鳴して聞こえた。「毒…」と呟いて白目のマヤがチタの調理場をよぎったというだけの話で、関係なくてすまぬです。

C-02 舞夜空(まいよぞら)
「>死者が混じってもわからないように」という謂われが面白かった。「>まさか、彼は」と不思議な青年の正体をまっすぐに暗示した以上、ラストはもうひとひねりなければ済まされないのだろうが、お空には足というハンデがすでにあるので、さらに死んでしまうというのはひとりの登場人物に起こる事件としてはちょっと多い気がした。「生者が混じってもわからないようにする」ためにも「お面」は使えるよと青年が助言したりして夜空の上の死者たちの踊りに参加し、「踊れない」という部分を救済するためだけのお話で終わってもよかったと思う。冒頭と幕切れで中心人物が交替しているというのも異色。ただこの長さであればそれが面白い仕掛けとして働くとも言えそう。お空がいて、青年が来て、お空がぽんと押し出され、青年が残る。また誰かが来て…なんちて。

C-03 ジンニーと魔法の絨毯
じゃじゃ馬ならしー♪ところどころでえいと調子をあげ、勢いをつけるような文章。「>少女は大きく小さな胸を」などあまり磨きこまれていない箇所がちらほらするものの、すでに彼らにとっては物語が始まってしばらく経っている、という状態は大変好み。魔法の扱いはあくまで軽く、本格ファンタジーな制限つき技能魔法ではなくて、ディズニー風マルチ魔法といった感じがラブコメ世界に合っている。どんな万能魔法も人の心のやっかいさをアブラカダブラで片付けることはできないわけで、仲良くケンカする相思相愛カップルにも、それを眺めて肩をすくめるジンニーにも、ゆったりした時間が流れている。このままサザエさんのように世界が止まり、永遠に恋愛していそうな魔法の物語。

C-04 起源の探査
探査船の内部である、という以外に具体的な描写はなされない。目的や背景が少しずつ明かされていく手法が好み。ひとまず「>どの惑星とも違う」ことが探査の判断基準である、ということだけが分かる。ところで「違う」ことを見つけるのが目的である、という言い方はちょっと日本語をややこしくしていないだろうか。「違う」という単語には「探し物の条件に合っている、合っていない」を判定するときの「合っていない」の意味も含まれている。惑星探査における判断基準は彼らにとって自明のことであるので、以降「>どの惑星とも」を省略した「違う」が話されることになる。「探している物とは違う」のか「どの惑星とも違う」のか、読み手を混乱させる。別の言い回しを探したほうがいいのでは。「>他の恒星系を目指して、再び旅立つまでだ」という何でもない導入セリフなのに、「>もし、違わないのであれば」のせいで一瞬文意を見失った。謎があるのはいいが、読む作業のあいだ、読み手に分かりづらさを意識させるのはもったいないと思う。冒頭では「>人類の起源に違いない」という「違う」も登場している。いっそ「違う」のバリエーションでぐるぐる遊んでしまうのもいいかも。

「>座席のようなもの」「>等身大の装置」などは表現にもう少しシャレがほしい。「>密封空間」は密閉空間かな。

降下準備が始まると、彼らにとって何が謎で何が自明かを、彼ら自身に語らせるというかなり高度な叙述方法がとられる。遮光ヘルメットに写り込んだ惑星の姿がしんと静か(素材が硝子というのはちょっと違和感。でも彼らの言葉で「硝子」と当てられるだけの何かかもしれない。個人的には色は金ピカがよかった)。ここでも、使われる呼称の特徴のなさにたびたび「今何が行われているか」という基本的なことを見失った。「>探査船」の他に「>無人探査船」と「>母船」があってそれぞれにイメージの境界が引きにくい。母船からの指令を復唱するときに「探査船」とあり、無人探査船を放出するのではなく自分の乗っている船をそう呼んでいるのだと分かるまでしばらくかかった。ミッション名も言わないのか…。「これより当探査船は母船との分離作業に入る」などとするか、船のミッション名を入れて復唱していることだけが分かる描写を、地の文でするなどしてはどうだろう。彼らの船がミッション名で呼ばれないのは単に叙述の都合である。読みやすさと叙述の都合がケンカしても、そこをうまいことゴマかす工夫を見たかった。独自の固有名詞など使わず、特徴のない呼称ばかりで話を進めるミステリアスな話法は大好物なので。

観測員は「>科学者らしくない物言いだ」と言われ、自分でも科学者ではないと認めているが、実地観測の鮮やかさに感激する科学者はいておかしくないと思うし、科学的にものを考えることはどんな職業をしていてもできる。「>言語学的な動機」は立派な科学的動機だと思う。「>驚いた。さほど科学的ではない動機から~」という操縦士の驚きは、探査船乗組員を公募した機関が求めたような狭い意味での科学者ではなかったのだな、という言い方であってほしかった。

狭義であれ広義であれ高度な科学的見識を持つであろう彼らが、物事の「夜の側」について全く考えが及ばないというのはどうかと思う。ここが恒星の直射を受ける場所かどうか(昼の側にいるかどうか)は、宇宙船の乗員にとって一番気になる確認事項のはずだ。「>全方位画面」に切り替える前に忘れず遮光メットをかぶらなきゃいけない。あと画像データ収集をさせるための探査機を、夜の区域に落とすだろうか?空はいいとして、大地の詳細な観察画像が撮れるだろうか。マーズパスファインダーもピーカンの写真が主だった。動力が太陽電池だったからだけど。

空が青いと知っているのは地球人だけ、という切り口は面白かったー。惑星の大気組成なんかは外からの観測で分かっても、内側からどう見えるかは確かに行ってみなけりゃ分からなそうだ。何かのSF作品で木星のガスの中を漂いながら暮らす生物というのがあったけど、彼らが見上げる空は、昼は夜はどんなだろう。「>全方位画面」の船にも乗ってみたいなー。

上代語の解読をからめたストーリー展開は楽しい。でも気になりだすと止まらない。上代語の専門家ではない操縦士でも、〈空色〉と〈水色〉を説明なしに理解できていた。全く意味するものが違う上代語〈空〉を、自分たちが知っている空と同じ概念を指すものだと誤訳してしまうほど、語そのものの音は似通っていることが分かる。文献を読みくだすのは結構簡単そうだ。操縦士は〈夜〉と〈昼〉は知らない。専門家である観測員はその概念を文献から知っている。では同じ文献から、空が上にあって、色がついていて、時間帯によって見え方が変わるという性質ぐらい拾えなかったのだろうか。

文中の〈カッコ〉つき単語はどういう扱いなんだろう。もしかして観測員が操縦士のために彼らの言語に直訳してやったのだろうか。もともとの語の音は両者全くかけ離れていると。では彼らの言語学者は文献中の上代語〈空〉から何をヒントに「これは我々の言語で言う空の意である」と判断できたのか…。ぐるぐるしてきた。たたみかけるように謎(彼らの知識に欠けていたものは何か)が明かされて爽快、「あれが空か」「あれが空だ」でしんと静まり返るラストが好きだったので、ここはあまりさわらずにおいてもいいとは思う。しかしこれは見せ場でもある。異なる言語をひとつの言語でたばねるという力技につきもののモヤモヤを、シャレの効いた表現で払拭してみせれば、拍手喝さいというところなのだと思う。

「>解析を試みなければわからない」のに言い切るのは観測員らしいのかもしれないが、そもそも解析していないのになぜそんな報告ができたのだろう。船に搭載された何かの機器がそう判断したのならそれは解析が済んだということじゃないのか。「観測員」という職種にそんな要素を感知する特殊能力がある、という設定であってもいいから何か根拠を書いてほしかった。ひとまずは「生命体を確認」と言うのが自然ではないだろうか。

「>非人工生命体」という言葉にも引っかかる。私たちが「人工生命体」と言うとき、「生命体は人工的であったり科学技術をもって作られたりするものではない」という前提が自明のものとしてある。ところが、自然に増えた細菌を見ただけで驚き、それを「どの惑星とも違う」点だとする彼らにとっては、自明の前提は「生命が人工的でない事態は異常だ」ということになる。彼らにとって生命の普通の状態は「人工の、科学技術をもって作り出された」状態なのだ。それを表すための日常よく使う名詞が、「人工生命体」というもってまわった言い方になるだろうか?「空」の概念が変化したように、彼らの概念では「生命体」という単語に「人工の、科学技術をもって作りだされた」という意味が含まれるようになっている、というのが自然な流れではなかろうか。またぐるぐるしてきた。

>「何を言っている?」
>「空が青いだと? 何度、同じをことを言わせるのか。空が黒いことを知らない者はいないのだ」
が続いてるけど言っているのは同じ人物だってことでいいよね。

セリフ終わりに「~であろう」が重なりすぎる箇所があり、やり取りだけで押す面白さが多少そがれたが、親しげな口語に崩れない彼らの会話はいい雰囲気。

C-05 クウジュ※注
文章に変則的な印象を出そうとしているのは分かる。しかしそれを理解してなお、あまり推敲しなかったか、推敲の基準が私と違うかだと思ってしまう。
「>少年は勢いよく身を起こした。」のあとすぐさま「>大粒の涙を落とし始める空は」とあるが、空の大粒の涙はまだ読み手には見えていない。「空がそういう状態だと言いたいのかな」ということがうっすら分かるだけだ。前提がおぼろげなところへ不思議な雫が少年の手にぽつりと落ちてもそれが不思議だとは思えないし、雫が少年の涙だと明かされたってさほど深い印象は受けない。
「>いつの間にか部屋にいた看護師に」は、「いつの間にか看護師が部屋にいて」なら後半の文章にも続きやすい。
「>看護師が何かをつぶやい」て、少年が「>反射的に振り向」くあいだに、「>激しくなった雨音に少年が気を取られていると、」や「>普段人の声を聴きなれていないせいか、」という説明が入る。あまり「反射的」には見えないし、看護師が何をつぶやいたのかという興味も薄れてしまう。
「>“眠っていて頂戴” 笑顔で看護師に告げられた言葉を」これでは看護師に向けて「眠っていて」が言われたかのように聞こえる。看護師と少年の反応は別の文章に分けたほうがよさそう。もしくは「笑顔の看護師が告げた言葉を」ならまだましだろうか。
「>少年に避けられる」も据わりが悪い。「少年は避ける。」であれば淡々と進む無言のやり取りに迫力が出そう。
それにしても、「>告げられた言葉を少年は」「>看護師の予想の範疇であったため、看護師は」「>逃げられたことでほっとしている少年に」このあたりをツルツルと連結させて平気な感覚が分からない。「>看護師が一歩踏み出せば少年は逆方向に数歩逃げては降り止む気配を見せない雨脚が」は文法が正しければ盛り上がりが出せる一文。
「~はずもない」という強調がよく使われているが、その「はず」は読み手にとってはどうなのか、もっぺん考えてみては。
「>差し入れにくるときですら少年に緊張させる」は「少年を緊張させる」だし、「>男の子の寂しさに鼓動する」は「呼応」だね。
「>この部屋からたとえ出れたとしても」男の子がセリフとして「出れる」と言うのはおかしくないが地の文でら抜きはやめたほうがいい。
「>希望を潰されてしまった男の子に残るのは与えられようとしている薬に対する恐怖だけ」恐怖が始まる場面なのにとてももたついて聞こえる。
「>助かった、と思う男の子に一瞬の隙が生まれた。」隙ができたのだなーという状況がよく分かる。そう書いてあるから。しかしそれだけでは「危ない!」とハラハラしたり、読んでワクワクすることがない。
「>何が起こったのかは男の子の理解の範疇を超えており、」どうして?刺さっている注射針をしっかり見たのに。男の子に分からないのは「どのような薬液を射たれているのか」だと思う。
「>天気が空樹の感情を左右しているのだ」そんなことだったら私だってある。これが邪魔して「>今や天気は予報するものではなく操る時代」だとは言えなくなるのでは。
「>よく見れば母親にだって~すぐに分かっただろう。」確かずいぶん前に背中を見送ったはず。職員は気兼ねなくありがとうございますと口元を歪めていい。
「>自然そのものを連想させる。」とまで何かをほのめかしたクウジュの容貌に、天気を操る才能との具体的な関わりは特になかった。
「>あなたにこそ責任があるのでは」というコメントも意味ありげだったが何も回収されていない。

C-06 ボクらの、冒険前夜。
冒頭「>死んだ、と聞いている。」は余韻たっぷり。謎を投げるオープニングのお手本だと思う。装飾のないぽつりとした呟きが深く響いて、あとあとまでちゃんと覚えている。「>嵐が来たのは、真夜中過ぎだったようだ。」という歯切れよい場面転換も好き。
丹念な描写の中に主人公の移り変わる思考が自然に溶け込んでいる。手を動かしていると色んな思いが浮かんでは消えるよね。農作業はキツいけどおばさんが優しい人でよかった。思い通りにいかない苛立ちや小さい自己嫌悪が、テドは読み手に近い場所にいると知らせてくる。等身大ってやつですか。彼の視点からこの先の出来事に反応していいんだと、読みながら安心していられる。空に誘われるとき、この信頼関係が効いてくる。テドの迷いを自分のものとして読んだ。サイを連れ戻さなきゃならない、頭が正常なのは自分だ。でもサイを頭がおかしいと切り捨てられない、嘘だけはついてない、でもそれが怖い。ええい、ままよとなったらあとちょっと自分を納得させる言い訳を探して、オールオッケー。冒険へゴーだ。

ちょっと戻って。寒いシーンでは骨身にしみる寒さを感じた。反対にあったかい描写が「>あかあかと燃え出した暖炉の火」しかなくて物足りない。シチューは味と合わせてあったかさも強調して、火にあたってこごえた手足が溶けていく様子なんかもあればよかった。ベッドはひとりぼっちのシーンだから冷え冷えしてて自然かな。
「>空で生きていたりするのか?」を投げつけるタイミングが絶妙。消えた家族の顔が浮かび、一気に広い展望がひらける。文字通り「空」だ、どんな可能性もアリ。いくらだって壮大な謎を詰め込める。
おばさんが馬に乗り、酒に酔い、しかも優しいというのは断然好感。頼れる大黒柱という感じで、血はつながらなくても、ここが彼らにとってあったかい我が家であることが伝わってくる。確かな安住の地が背後にあるからこそ、家から離れて嵐の中に出て行く真夜中の不安がいやがうえにも高まっていく。
「>丘の中腹あたり」にサイの姿を見つけても、「>空は低く、鈍色の流れ雲に覆われていたが、それでも東のほうがうっすらと明るくなっていた。嵐の名残の風だけが吹きあれる夜明けとなりそうだった。」などの描写に手を抜かない。このあとテドが走り出すので、不気味に明るい空や嵐にあおられた焦燥感が、以降のやり取りに自然にまとわりつくことになる。むーん、好き。
ラストで謎は解明されないが、最後まで付き合ってよかったという気持ちになれた。きっととんでもない大冒険が待っているのだろう。

C-07 鏡よ鏡
ムハー、顔が笑ってしょうがなかった。王道~と言いたくさせるのは、しっかり作ってあるからだと思う。田中とやまなし、苗字の対比が面白かった。好きになった相手の美点をあげる時ってもっとどうでもいい点だったりするけど、小説だとこういう入り口が嬉しい。「>銀婚旅行だとさ」でさらりと流れに持ってく呼吸(先輩じゃない、書き手さんだ)が見事。お弁当づくりの奮闘はちょっと「ほほえましい」が型どおりだったかな。よく見ると「>桜でんぷ(PU)」だ。でんぶ(BU)ですよね。
「>うん、先輩のことを考えるのは、とても楽しい。」が好き。背後から登場して「こつん」の先輩は見事なまでにラブコメの王子立ち。主人公が苗字の憧れについて話したら「じゃあやまなしまゆみになりゃいいじゃん」なんてさらっと言いそう。ぷぷぷ。そうか先輩は「真っ赤になって口ごもる」とか「慌てる」「取り乱す」がないキャラだな。
「>自慢気に箱を見せびらかしたんだ」とあるが、自分で「自慢気」と言うのはちょっと違和感がある。行き過ぎた自分を揶揄する感じなら「自慢気味」くらいだろうか。「~でしょ?」などもまじる他のセリフに比べて、「>女の子からの弁当だと」から始まるセリフ全体に口語らしさがないせいかもしれない。

「>愛想笑いしかしてなかった」ことに先輩だけが気づいてくれた、というのが歓喜ポイントなわけだけど、なぜ気がついたのか、いつどんなときに気がついたのかではなく、先輩が自分でそう言うセリフ説明しかないのはちょっと食い足りない感もあった。
「>笑うべきと判断した瞬間」をのがさずとらえてきた主人公は世間的には「笑う」ことに成功していたわけだ。なのに「自分の笑顔はぎこちない」ことをちゃんと意識できていた。きっと「笑えない病(やまい)」はそう深くない。苦悩から解放された感動がもひとつはじけきらないのはそのせいかも。本人には愛想笑いをしてる意識はなく、ちゃんと笑ってるつもりなのに「お前何でいっつもぎこちないの?」とか言われたりしたらきっとガーンと来る。クラスメイトなどから見て主人公の笑顔はどうだったのだろう。人が本当に笑っているかどうかというのは、結局見た目の判断しかできない。ひきつって見えても心底笑ってる人だっているし、とても自然に見える先輩の笑顔も本当は計算かも。「オレも心の底から笑ってないんだ」なんてこっそり打ち明けてくれたりして。
ハッピーエンドであるものの、実は鏡の中の自分との会話が好きで、すがすがしくサヨナラしてしまうラストが親友との別れのようで妙に寂しかったのでした。どこまで主人公目線だ私。

C-08 Deserter's 45 minutes
部外秘の音声記録という形で、冒頭からいきなり登場人物の最もプライベートな心情に接近してしまう。しかし彼らについての直接の描写はせず、遠巻きに見ていただけの誰かの視点に切り替えるという距離感の制御がすごく巧み。
続くアメリカンなひとり語りはスティーブンキングやローレンスブロックなど「持ちネタを披露する男」的ショートストーリーの楽しい雰囲気たっぷり。一人称であっても私小説ではなく、より積極的に「仮想の聴衆」に向けて体験談を語る話法は、アメリカ版「すべらない話」だ♪

「>イトマキエイ」や「>黒イルカ」、「>上の連中」なんて一兵卒しゃべりが魅力的。「>遊び終わった途端に大事なお人形さんを布でくるんで」「>娘ッ子がどんな声で鳴くのか」「>どんなエンジンを積んでらっしゃったのやら」が大好きっすよ。
「>世界中の神様と化け物が一堂に会したとかいう、伝説的で神話的な任務」について具体的な情報は語られない。語り手がわりと現代に地続きなタイプの軍人であることを強調すればそのとんでもなさを表現するには足りる、というシビれる手法ったらまるでビリヤードのトリックショットのよう。
「>被弾直後」と「>聞いてるだけで血反吐の匂いがしてきそうな感じ」だけでは字面に血の匂いを感じづらく、「>あれは胃に来た」や「>必死で吐き気を堪えてる」がピンと来にくかった。激しく咳き込んでるとか、吐いた血がゴボッといったとか、あと少し踏み込んでは。「>海に子供連れてきて、自分の方がはしゃいじまう親」はストレートに伝わる例えで、さらに語り手氏の神様への親近感もこめられた、あったかい一文。夜明けの海が見えて、「>黄金色の、太陽が初めて世界に姿を見せるその瞬間の、強烈な光を。」では時間が止まった。

後日談として「>超能力」の存在がほのめかされ、「>確実におっ死んじまうような被弾」をしたあと、リセはそんな状態でいたのかなと想像させる。残留思念のようなもの?自動操縦に切り替えなかったのは思念ではスイッチを押すことができなかったからだろうか。それともイトマキエイはスイッチとかじゃなく、もともと思念で動かす乗り物だったのだろうか。リセが帰還を拒否したということか。思念の状態ならきっと「>どこまでも」飛べる。何にせよそんなリセと会話できたのはきっと中尉だけで、ブラックボックスの空白はそういうことだろうか。まだ生きていた中尉の肉声だけがうわごとのように記録されていたのであれば「空白」という噂は漏れてこないだろうな。ともあれ語り手は「>上の連中」が何をどこまで把握してるのかは知らねえぜとだけ言えばいい。「どこまでも飛んでいく」の可能性をうんと広げて終わる。「deserter」は辞書引きました。

C-09 私と私の黒のこと

「私」は見たことのない空について考え、バッハを聴き、今起こっているその出来事を、小説にするとAが言う。その小説の中では空の謎が語られ、バッハが鳴り、それを小説に書くと言う誰かがいるそうだ。きっとその小説の中でもまた誰かが空に思いを馳せていて…わ~キレイだ。さて今読み手が読んでいる小説は何番目の「私」の物語でありましょうか。世界を何重にも包み込む空とバッハの物語。「私」を包み、「私の意識」を包み、「Aと私」を包み、「>たくさんの不安」があるだけの「>外側」さえもさらに包む、入れ子のように。

意識が肥大する、というのも面白かった。寝入りばなの半覚醒のような状態のときに、自分の手がものすごく大きくなっている、という感覚に陥ったことがありまして、もう大道芸の巨大バルーンくらいでかいのが手首の先にボン、ボン、とついている。少し力を入れれば壁にさわってしまいそう。実際に力を入れてみると手が壁でない何かにさわって、自分と世界の境界が戻った。手だけでなく存在すべてがあんな風だったらどんなだろう。自分と世界の境界が変幻自在であるように感じるだろうか。とてつもなく不安になるのだろうか。「>二つの足で立ったとき、頼りがただ地面ばかりになる私には、それからあっさり離れる彼らをすごいと思う。」とあるが、彼女(もしくは彼。私の中では彼女っぽいかな)は飛ぶのは怖くない。地面を踏んでいる足の感覚のほうが怖いのだと思う。地面を踏んでいる足の感覚は、彼女の頼るべき支えであると同時に「何の頼りもなく立っている」という事実を突きつけてくる意識の枷だ。彼女の空想が鳥なのは、地面を踏んでいる不安な状態でいたくないということかもしれない。

盲目の人の視界(←?)に暗闇はなく、後天的に失明した人の表現によると「強いて言えば白い」のだとか。そこにあるのは「虚空」なのだと思う。主人公の「>目の前に広がる黒」というのは彼女に「それは黒だよ」と教えたAの、見える者としての表現ということだろう。虚空はそれ自身では「>他に呼びようもないので」、彼女はAからの知識を受け入れていた。しかしAとのやり取りから、とても広く、ずっと向こうまで続いてる「空」として、彼女なりの虚空の捕まえ方を編みだした。それともこれは入れ子の物語のひとつで、「青」や「白」についてしつこく訊かれ、「黒」も反射光のあるなしで判断する色彩のひとつである、と気づいたAが、彼女に贈る新たな世界としてそう書いたのだろうか。ああ無限に続く。無窮の空。

C-10 てるてる坊主の気持ち
ハードボイルドに語るてるてるくん。ニューヨークのやさぐれた私立探偵のような、宮仕えをグチる英国スパイのような、とにかく「てるてる」という語感からはかけ離れた擬人化が猛烈に楽しい。「>よいこのみんなから隠蔽された残酷な物語」「>ラシャばさみだけは残酷なまでに鋭くてよく切れる。」ヨイわ~^^
先代たちに混ぜてあった紙切れが、各てるてる坊主それぞれの文章スタイルに影響している、ということに始めは気づかず読んだ。「>抜粋」とは言えどんなオトメな例文ポエムが差し挟まれるのかと思っていた私はギャグの呼吸をつかみそこねました。「>姫君」「>創造主たる少女」など文面そのものが「>恥ずかしい言葉で埋め尽くされている」ってことだったのか。
続いて少女のモノローグに切り替わり、ミッションのからくりがついに明かされる。環境の変化によるストレスを描く要素として「>挨拶の仕方なんて考えたこともなかった。」あたりが真実味を出している。おかげで「>てるてる坊主がしゃべった。」になっちゃってもお客は引かない。「>カンナムフィアが探していた答えは、そんな泣き顔なのか?」など熱血な激励が素敵。てるてる坊主なのによ…と常にニマニマさせてくれるので、智沙の小さい悩みごと(苦しみは大きいが)にも素直に最後まで付き合える。
「>心の中の足りないものを埋め合せるために、」などは分析的すぎる気もするが、てるてる坊主を十四個も作っているうちに気持ちの整理がつき始めたということなのだろう。こわばっていた感情が溶け、前向きに明日へ歩き出す。それぞれのてるてる坊主を作ったときに智沙が影響された本や映画なんかが小ネタとしてあればさらに楽しくなったかも。前向きなタフガイ、てるてるくんのモデルは何かしら。

C-11 ふりさけ見れば春日なる
うあーキレイだ。またキレイなものを見てしまった。
天体観測や宇宙科学など規模の壮大なものが、悩みの小ささを教えてくれることがある。でもそれが人間の小ささも同時に知らしめてきて、一層怖くなることがある。宇宙の大きさに比べたら、自分の悩みは小さい。でも自分の存在だって塵ほどにちっぽけなんだ、どうしよう。なんて。この作品の主人公は宇宙の果てへ行ってしまわず、電話の向こうの彼や「>中国から帰ってこられんかった」人など、天体と向き合っている誰かとの関わりとしてその大きさをとらえ、ちゃんとこの地上に着地点を見つけた。見上げた空の違い、空気の違い、お国言葉など「土地」にこだわった描写が続き、圭子というキャラがしっかり大地を踏みしめて立つからだと思う。宇宙へ行っちゃわないのも当然だ。
親子づれを見やってため息をつく、そろりとした導入が素敵。家族とのやり取りも恋人とのいきさつも事件らしいものが全くないのに、鬱々と回想し、電話を待ち、静かなドラマがひたひたと水位をあげていく。すっかり引き込まれ、タイトルを忘れた頃に「>三笠の山にいでし月かも――だっけ」となり、うっとり。本文中では下の句だけを呟く、というのは憧れです。
別の土地から眺めても、月そのものは変わらない。自分が変わってしまうのではという怖れは消えた。「>俊輔と結婚すれば、空ばかりに囲まれた街が、新しく自分の帰る土地になる」ことへの怖れも。でも意識の持ちようでどうにでもなるということは、結婚に縛られないということは、彼とのこれからの人生にも何も決定的なものはないということだ。女は三界に家なしと言うのは大時代にすぎるのかもしれない。反対に、結婚してみたらやっぱり何もかも変わってしまって、「>四角い焼餅の入ったお雑煮」の土地に縛られてしまうのかもしれない。この先また迷ったときに、彼女は月を見上げるのだろう。そのとき月はどんな空に浮かんでいるだろうか。中国よりは近いだろうか。「二度と帰国の船のない異国に比べれば、近い近い」と思えたらいい。満月にすっかり陶酔。

C-12 三つ葉
ヤケ酒をあおる中年男。「飲み屋をはしご」「浴びるように飲み」という以外に何か独自の描写があればよかった。隣合った人にからんで迷惑がられたり、吐いたり、ズボンにカギ裂きができてたり、泥酔のあやふやな記憶が渦巻く中で「>泣き出したいような、笑い出したいような、とてつもない不安と興奮が押し寄せては引いていく。怒りたくなるような――死にたくなるような。」が響くんだと思う。
「>その考えを振り払うように、すでに視線は彷徨い始めた。」とあるが、「すでに」でつながる意味が分からなかった。「このまま朝まで」という考えを振り払ったら、出てくるのは「真面目に家に帰る気持ち」かな。それが「すでに彷徨う」と表現されるのはなぜだろう。

起こっているのは不思議な出来事である、と文中で直接言ってしまう表現が多い。おかしな少女と老人のペースに乗せられるままあれよあれよと玄関に通されるというだけでも、読み手は充分不思議な雰囲気を嗅ぎ取れると思う。現実と不思議の境界線を言葉で引いておかないほうが、あとで出てくる「>落ち着いたら、現実に戻っちゃうもんね」の投げる波紋がもっと際立ったと思うのだがどうだろう。
「>体目当ての人もいる」ということになっているのは私にはちょっと邪魔だった。そこだけ唐突にインモラルで、あってもなくてもいいオマケのように感じる。それならそれで主人公はもっと隠微な雰囲気にあてられてドギマギすればいいのに、「>誠二さん」と呼び、私の仕事、分かる?だの思わせぶりな質問をする化粧した少女を前にして、「>あそびめ」とはっきり言われるまでそういうことを連想もしないというのはちょっととぼけすぎではなかろうか。同じ年頃の娘がいるからということだが、だからこそ「娘と同じくらいの子にドキドキするなんて」などとつい意識してしまうこともあるのでは。
「>ここは静か過ぎるでしょう? だから不安になる。でもその剥き出しの不安を私たちが癒すの」という説明はこの店の存在をくっきりと描き出すためのものなのに、叙述がさらっとしすぎていて心に残らない。あと一文何か重みのある表現をドンと投げておくべきでは。
幕切れでは「>――孤独を癒す者が、寂しくなってどうするんだ。」など、三つ葉との関係が深まって終わってしまう印象。娘に父親らしく接することができるようになったラストとあまり密接な関わりを感じない。色々吐き出して気持ちが落ち着いたというだけでは寂しい。読み手が。寂しさの正体を受け入れられるようになって、娘にも「寂しいよ」と素直に言葉にできるようになったりしたのだろうか。

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