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4/17ピースピットVOL.11 『MOTHER』緊急追加公演 in HEP HALLを観てきました。感想をめも。3月にあった公演の好評を受けての緊急追加公演とかで、公演告知DMは無作為でDMリストの2/3の人だけに発送されたんだって!教えてくれなきゃ行かなかったよ!当たってよかった観てよかった。
本日お昼が千秋楽。説明なしの殴り書き感想ながら、念のため以下はネタバレ注意です。
ごうきゅう。いっこも共通点ないのに、「私のことだ!」「私の話だ!」と思った。やろうと思えばできたかもしれない色んなことを「いらないや」と捨てるたび、私も可能性の子供を捨ててきたのだと思う。そっちを選んだ場合のお話も用意されていたのに、それは私のお話としてこの世に生まれることができなかった。「あったかもしれない私」であるハヤトに、「生み出してあげられなくてごめん」「そっち側を選んであげられなくてごめん」と、私も謝らなきゃいけない気がした。関係ない女たちのお腹もふくらんでいくシーンから、闇雲に前向きな希望がふくらんでいく。圧倒されて笑いながら泣かされた。誰もが誰かの子供で、誰かが生み出したお話であり、それぞれにまた新しいお話を生み出していくことができる。みんな誰かのお母さん。明日起こるお話を産むために今日ここにいる。そういう話に思えた。
同じ客席で笑って泣いてる人たちが、私と同じことで笑って泣いてるとは、とても思えない。それぐらい丸っきり私のこと、私の物語、と思って観た。お芝居でこんな風に感じるのは初めて。こんなことは初めてだなあと、最近よく思う。単に昔のことを忘れていってるのか。
もうだめ!というときに神のように降臨するスイッチ男爵は、存在そのものがスイッチ。男であり女であり、便利なようで頼りにならず、美人メークなのにヒゲ似合う。「今ならどちらでも行けるよ、どうする?」という選択は、リアルタイムで突き付けられるものでなく、あとから思い返して「あのときあちらを選んでいたら…」というときに初めて出てくる視線だ。出来事すべてを戯曲として俯瞰する脚本家のものの見方だ。妄想世界を綴る語り口として、ピースピットらしい企みになってると思う。えらそう。
さらわれの王妃は童話ピースで、思い返せば役割としてパズルの全体像にカチッとはまりきらない(あくまで私の理解)のに、忘れがたいキャラ。三谷恭子さんの強烈な説得力か。「わらわの子供ではない!」を順繰りに言ってく場面、「お腹に赤ちゃんがいるんだね?」とまとわりつく場面、たたずまいの迫力なのか何なのか、訳の分からない見ごたえがあって好きなシーン。衣装も一番すき!
友人トキさんは逆に、ストーリーの中心近くにいる濃い役割なのにあんまり触れてもらえない人。ふくよか少女だったのにすっかり肉が落ち(失礼)ちゃって、子供ギライになっちゃって、それってやっぱり色々衝撃だったからだよね…と架空の人物に同情してみる。
すずめはら先生の最低っぷりがよい。お話の序盤は「あいつの最低さに早く気づいて主人公!」と思って観てたけど、いよいよ先生が本性現すというと、それはつるのが作り出した空想であるわけで、どっかでちゃんと憎んでたんだなあと納得したり。感情に血が通って見える。
「マザーの悲しむ顔は見たくないのよ!」カマハヤト男前。王さまとか集団ハヤトが入り乱れ始めると、調子っぱずれがますます壊れていく感じでダンスも楽しい。中盤以降のダンスが好き。オープニングからしばらくは「人物紹介ですよ」という枠組みがお行儀よすぎて、いつものピースピットなら「ここで踊る」ための意味づけもお話の一部だったりするのになあ、とそんなにみっちり全公演観てやしないのに思った。ぼーちゃんの声の浮世ばなれっぷり。空想世界へ一気に連れてかれる。「ンはとなかやまくん…」の抱擁がめっちゃ好き。
現実逃避と和解してお話は空想に別れを告げるけど、現実を補完もしくは解釈しなおすお助け装置として、妄想や幻想はこの先も必要になると思う。子供を押しつぶす親は、そうありたい理想という妄想にさいなまれておかしくなるのかも。妄想は、現実にこそ巣食うのだと思う。でも妄想力があればこそ、絶望をキャラ化して乗り越えられるし、根拠のない希望を支えにできる。終幕のぼーちゃんスマイルが、絶望と希望は同じものであるという希望を投げて終わる。笑顔かっわいいなあ。
終演後にあったトークイベントは、ツイッターを「みんなで見る」という大胆なコミュニケーション拒否集会、ツイットーク。顔の見える距離につどった全員が携帯をいじってる、すごいイベントでした。
誰も声に出さない。でも誰の発言も届く。というアンビバレントな試みに、携帯不携帯で参加。たまに「すごい光景やな」と周りを見回してる人と目が合いつつ、意地でも「手元を見てるフリ」はしないで通す^^。イベントとして探り探りな状況が楽しかった。携帯持っててもツイッター使いこなす自信ないからいいんだ。
帰宅してから見てみたところ、ハッシュタグを追えばいいのかな、あまりものすごく活発な感じにはならなかったよう。あの場にいると、やっぱり気持ちがあの場のテンションになってて、「文章書く」っていう自閉モードに入りづらいんだと思う。つぶやきたい言葉が見つかり出したら、終演直後の劇場で突っ込んだ感想がバンバン出始めたりして、面白くなりそう。欧米的弁論イベントみたいのだとなかなか発言に勇気がいるし、ひとつの話題をきっちり落着させる技術が要るけど、つぶやきとして放流された言葉に反応する人は反応し、流す人は流し、しかもその場にいられるというのは、遊びとしてとっても気楽でいいぞ。通過を見守る流しそうめんみたい。揖保の糸なう。
ひとりツイート。つるトキすずめハトもず、鳥だらけだ。わあ。
末満さんと岡本さんが似てるという話題が出た。確かに似てる。そのせいで観劇中から「似てる連想」のスイッチが入ってたのか、ずっと気になってた。「末満さんは誰かの顔パーツを持ってる、これはすごく知ってる別の誰か…」。人の顔を見ながら別の顔をダブらせようとして薄目にしてるとお芝居見られないから忘れることにしてたけど、今分かった!タカアンドトシのタカ!ヒゲとか関係ねえ、王さまがムスッとしてるときのむくんだような目元。カチャッと重なった。すっきりしたけど軽く失礼。ごめんなさい。