管理人・歩く猫 これっぱかしの宝物について。真田丸とネット小説など。ご感想・メッセージなどは拍手のメッセージ欄でも各記事コメントでもお気軽にどうぞ
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11/23 スクエア公演「108」を観てきました。せっかくカテゴリがあるのでメモ書き感想をアップ。ネット上で読むとすごくエラそうだなあ。
以下ネタバレしています。東京公演中だそうで激しく閲覧注意です。かといって世の観劇ブログみたいにきれいにまとめたあらすじは書けないので、観ない人への紹介にもならず。
以下ネタバレしています。東京公演中だそうで激しく閲覧注意です。かといって世の観劇ブログみたいにきれいにまとめたあらすじは書けないので、観ない人への紹介にもならず。
満足のスクエア。お寺が舞台なので、悩みが悩みとして描かれるだけでなく、理屈によって昇華するための命題になっているのが自然でよかった。悩みって普段そうガツガツ解消しようと思わないもんね(私だけか?)。理屈は好きなので、自然に理屈をこねるためのお膳立てがしっかりしてると安心。
満足した理由として不満足だった公演を引き合いに出すのもアレだけど、一度「あれ?スクエアあれ?」と首をかしげながら観たことがあり、足が遠のいていた。下町のうどん屋、夢を追ってった娘が久々に帰ってきて、小さい事件やすれ違いが起きつつ、ズラリ出てくる大阪商人もキャラ満載で楽しいのに、「なんで彼らは商売人?なんで娘はその夢?」っていうところが、あまりテーマと馴染んで聞こえてこなかった。人情喜劇で会話テンポでええ感じ関西、というあらすじを聞くだに「スクエアにやってほしいね」感がてんこ盛り、でも見ていてドラマが育っていかなかったというか。ぐんぐん育つドラマは、お話が膨らんでいくのを見ながら余計なことを考えていられる。「108」はそういう自由連想気分にすっと入っていけたと思う。煩悩ごとのやり取りが整理されていて、人物紹介があらかた済んだ、という信号が分かりやすかった気がする。
自由連想とかいって、大したことは思っていない。座禅の「無ッ」の合い間に、匂いで「…ハンバーグ?」とか言わないかな、とか。劇中登場しない和尚なら社長さんの宗教者批判に何て言うかな、とか。「人に上から物言って許されるのは、実社会で何事もなしえていない人間やからちゃいますかね」とか? 「幸せかどうかはあなたが判断するものですよ」なんて言うのが、がんがん成功して世界の幸せを定義してみせてる高額納税者だったら嘘くさいもの。何だかいつも道の途中で、誰かの役に立ってるのかな…なんて弱気になるところは舞台人である彼らを重ねることもできる。そんなベタな二重写しを、はっきりそれと言わずに意識させてくれるスクエアならとても好きだ。みかんの問答も好き。ストーリーが進む間、頭の横ちょに置いとける。覚えてる限りこんな。
女が和尚に尋ねました。「幸せとは何ですか?」和尚は言いました。「それはこのみかんのようなものです。これを食わずして味を知るにはどうしたらいいでしょう」女は分かりませんと言いました。和尚はみかんを頭の上に乗せました。女はにっこり笑って帰っていきました。おわり。
私の考え:頭に乗せたみかんは視野の内にない。でも存在として、自分と一体となったどこかにはある。見えないが、落とさないように意識はしてる。そんなみかんなら実食が酸っぱかろうが甘かろうがどっちでもよかないか。だって頭の上にあるかぎり、それは食べないみかん。そして味の判断ができたとしたら、それはすでに食っちゃったみかん。もう頭の上にないから気にしなくていい。
総論?:幸せは、手に取れる実体だけを取り出そうとすればもうほんのほんのわずか。みかんの味のように、食べたら終わり。捕まえて手の中に置いとけるものじゃない。頭の上に乗せておくくらいの尊重と距離感で無視してみるのが調度いい、ということでどうでしょう。これ、本当に落ち込んで、「不幸だ」と毎日思っていて、「幸せって何だろう」と考えているときに、他人に言われたらすごく嫌だ。「こだわりはひとまず頭の上に追いやって」なんて超越してられないから悩んでるのに。自分の中からこれを言うから光があるんだと思う。
舞台の流れ。女はもりもりっと皮をむき、一個食う。「それがあなたの答えですね?」に誇らしくうなずいて男を追う。「食べずして、とか、言葉を使わずして、なんてのは誰かが作った勝手ルール。あたしはあたしのルールで行く」というのが彼女の答え?ならきっと結婚でも自分ルールを主張できる。
ひとつだけ、「ほら、もう行っちゃうよ!すぐ追いかけて!」と緊迫高まるシーンの外車エンジン音が、「ブインブイン、ブーーーン」といつまでも遠ざからず、コース周回音みたいだった。駐車場所からザリザリ車を出す、という感じに聞こえんといかんのちゃうかなあ。緊迫シーンだけに興をそがれる。
使われる関西弁にキャラそれぞれのグラデーションのようなものがあり、耳に楽しいのがスクエアの好きなとこ。以下人物をあだ名呼ばわり。エプロン坊主はひたすらおっちゃんトーク。色欲坊主は方言の曖昧さに逃げてる感じがいかにも嘘つきっぽい。受験坊主はお行儀第一の丁寧嫌味があるときプツンと崩れる。お寺の息子坊主は「そうちゃいますかー」と無責任な呟きが若者らしい。優柔不断な占い女は苦労知らずの船場こいさん風。社長さんは「だから違うだろう!」とか「帰るぞまどか!」とか、どんな短文にももれなくケンがある。ひとり東イントネーションなので俺サマ感いよいよ際立ち、うん、あの人は「ウザい」ぞ♪(あくまで役柄)
そして終幕、息子坊主は呆然と見送り、「食べたやん…」とか言いつつ自分もみかんを食べてみる。何か希望ありげに余韻。「和尚が出かけたあとに…な」なんて手渡された肉食リストがズルい。ドラマの幕引きとして、いい逃げ方。好き!息子坊主、映画の世界に打って出たとして、けちょんけちょんに負けて帰ってきそう。そのときこそ親父が言うのさ「これでお前も立派に人さんに物言える資格を得たんやで」。悟空とお釈迦さまだ。憎いね浪速のブッダ。映画じゃなくてもお寺を継がなくても、和尚のラジオ番組みたいに「人に物言う」何かをやれたらきっと「めでたし」。
カーテンコールは私はすごく頑張ったメンツだった。「しーんとしたお客さんだったのでもう着替え始めてた」のだとか。確かに「止むのか…続くのか…どっちぃぃ」という少人数拍手。でもこの満足は拍手に還元するよりないでしょう、という粘りで一定に刻む。座席によって感動度合いが違ったり、前のほうに先行予約のファンがいたりして、カーテンコールの拍手が一箇所に固まっていることもあるけど、割と色んなところから聞こえた気がする。ちまっとエピソードトークを聞けたのでさらに満足。きちんと作られたセットは縁の下がいかにも深く、メガネが滑り込んだら果てしなく見失いそう。そんなアクシデントに慣れてないので面白いことも言えずただただ探したというリアルメガネメガネ事件、「棒持ってこか」「いらんて。それよりつなげ」など、リアルスクエア会話が展開されたんだろうか。
遠のいていた間の「誉め兄弟」「泊、」「法廷式」がすごく面白そうでしょうがない。いや、劇場に足を運ばなかったのだからしょうがない。DVDは検討保留。次回作は来年十月とか。遠い話だけど、間断なく本公演があるときより必ず行く。楽しみ。
満足した理由として不満足だった公演を引き合いに出すのもアレだけど、一度「あれ?スクエアあれ?」と首をかしげながら観たことがあり、足が遠のいていた。下町のうどん屋、夢を追ってった娘が久々に帰ってきて、小さい事件やすれ違いが起きつつ、ズラリ出てくる大阪商人もキャラ満載で楽しいのに、「なんで彼らは商売人?なんで娘はその夢?」っていうところが、あまりテーマと馴染んで聞こえてこなかった。人情喜劇で会話テンポでええ感じ関西、というあらすじを聞くだに「スクエアにやってほしいね」感がてんこ盛り、でも見ていてドラマが育っていかなかったというか。ぐんぐん育つドラマは、お話が膨らんでいくのを見ながら余計なことを考えていられる。「108」はそういう自由連想気分にすっと入っていけたと思う。煩悩ごとのやり取りが整理されていて、人物紹介があらかた済んだ、という信号が分かりやすかった気がする。
自由連想とかいって、大したことは思っていない。座禅の「無ッ」の合い間に、匂いで「…ハンバーグ?」とか言わないかな、とか。劇中登場しない和尚なら社長さんの宗教者批判に何て言うかな、とか。「人に上から物言って許されるのは、実社会で何事もなしえていない人間やからちゃいますかね」とか? 「幸せかどうかはあなたが判断するものですよ」なんて言うのが、がんがん成功して世界の幸せを定義してみせてる高額納税者だったら嘘くさいもの。何だかいつも道の途中で、誰かの役に立ってるのかな…なんて弱気になるところは舞台人である彼らを重ねることもできる。そんなベタな二重写しを、はっきりそれと言わずに意識させてくれるスクエアならとても好きだ。みかんの問答も好き。ストーリーが進む間、頭の横ちょに置いとける。覚えてる限りこんな。
女が和尚に尋ねました。「幸せとは何ですか?」和尚は言いました。「それはこのみかんのようなものです。これを食わずして味を知るにはどうしたらいいでしょう」女は分かりませんと言いました。和尚はみかんを頭の上に乗せました。女はにっこり笑って帰っていきました。おわり。
私の考え:頭に乗せたみかんは視野の内にない。でも存在として、自分と一体となったどこかにはある。見えないが、落とさないように意識はしてる。そんなみかんなら実食が酸っぱかろうが甘かろうがどっちでもよかないか。だって頭の上にあるかぎり、それは食べないみかん。そして味の判断ができたとしたら、それはすでに食っちゃったみかん。もう頭の上にないから気にしなくていい。
総論?:幸せは、手に取れる実体だけを取り出そうとすればもうほんのほんのわずか。みかんの味のように、食べたら終わり。捕まえて手の中に置いとけるものじゃない。頭の上に乗せておくくらいの尊重と距離感で無視してみるのが調度いい、ということでどうでしょう。これ、本当に落ち込んで、「不幸だ」と毎日思っていて、「幸せって何だろう」と考えているときに、他人に言われたらすごく嫌だ。「こだわりはひとまず頭の上に追いやって」なんて超越してられないから悩んでるのに。自分の中からこれを言うから光があるんだと思う。
舞台の流れ。女はもりもりっと皮をむき、一個食う。「それがあなたの答えですね?」に誇らしくうなずいて男を追う。「食べずして、とか、言葉を使わずして、なんてのは誰かが作った勝手ルール。あたしはあたしのルールで行く」というのが彼女の答え?ならきっと結婚でも自分ルールを主張できる。
ひとつだけ、「ほら、もう行っちゃうよ!すぐ追いかけて!」と緊迫高まるシーンの外車エンジン音が、「ブインブイン、ブーーーン」といつまでも遠ざからず、コース周回音みたいだった。駐車場所からザリザリ車を出す、という感じに聞こえんといかんのちゃうかなあ。緊迫シーンだけに興をそがれる。
使われる関西弁にキャラそれぞれのグラデーションのようなものがあり、耳に楽しいのがスクエアの好きなとこ。以下人物をあだ名呼ばわり。エプロン坊主はひたすらおっちゃんトーク。色欲坊主は方言の曖昧さに逃げてる感じがいかにも嘘つきっぽい。受験坊主はお行儀第一の丁寧嫌味があるときプツンと崩れる。お寺の息子坊主は「そうちゃいますかー」と無責任な呟きが若者らしい。優柔不断な占い女は苦労知らずの船場こいさん風。社長さんは「だから違うだろう!」とか「帰るぞまどか!」とか、どんな短文にももれなくケンがある。ひとり東イントネーションなので俺サマ感いよいよ際立ち、うん、あの人は「ウザい」ぞ♪(あくまで役柄)
そして終幕、息子坊主は呆然と見送り、「食べたやん…」とか言いつつ自分もみかんを食べてみる。何か希望ありげに余韻。「和尚が出かけたあとに…な」なんて手渡された肉食リストがズルい。ドラマの幕引きとして、いい逃げ方。好き!息子坊主、映画の世界に打って出たとして、けちょんけちょんに負けて帰ってきそう。そのときこそ親父が言うのさ「これでお前も立派に人さんに物言える資格を得たんやで」。悟空とお釈迦さまだ。憎いね浪速のブッダ。映画じゃなくてもお寺を継がなくても、和尚のラジオ番組みたいに「人に物言う」何かをやれたらきっと「めでたし」。
カーテンコールは私はすごく頑張ったメンツだった。「しーんとしたお客さんだったのでもう着替え始めてた」のだとか。確かに「止むのか…続くのか…どっちぃぃ」という少人数拍手。でもこの満足は拍手に還元するよりないでしょう、という粘りで一定に刻む。座席によって感動度合いが違ったり、前のほうに先行予約のファンがいたりして、カーテンコールの拍手が一箇所に固まっていることもあるけど、割と色んなところから聞こえた気がする。ちまっとエピソードトークを聞けたのでさらに満足。きちんと作られたセットは縁の下がいかにも深く、メガネが滑り込んだら果てしなく見失いそう。そんなアクシデントに慣れてないので面白いことも言えずただただ探したというリアルメガネメガネ事件、「棒持ってこか」「いらんて。それよりつなげ」など、リアルスクエア会話が展開されたんだろうか。
遠のいていた間の「誉め兄弟」「泊、」「法廷式」がすごく面白そうでしょうがない。いや、劇場に足を運ばなかったのだからしょうがない。DVDは検討保留。次回作は来年十月とか。遠い話だけど、間断なく本公演があるときより必ず行く。楽しみ。
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